牧師ブログ

2019年5月9日祈祷会の学びより

おそらくペトロの家だと思われます。「家」に主イエス・キリストが入られ、御言葉を語られ、聴衆が喜んでその御言葉を聴いています。これこそ「教会」であるということが出来るでしょう。彼らは主の御言葉を聴き、主の御業が行われるのを見ようと集まってきました。しかし、誰もが主イエス・キリストに関心を向け、自分の後ろに誰がいるのか、誰が来ているのかを知らずにいたのです。私たちはどうでしょうか。真剣に礼拝を捧げようとするあまり、隣にいる初めて来た方に対する配慮を怠る事はないでしょうか。その配慮のなさが初めて礼拝に来た人に対して、主イエス・キリストとの出会いを妨げてしまうことになるのです。しかし、この中風を患う人の友人たちは、そこで諦めませんでした。彼らはすぐに屋根に上るのです。そして屋根板を剥がして穴が空いたところから、この中風を患う人を主イエスが立って教えておられるところに吊り下ろしたのです。

主イエスにとっても自分の前にいきなり病人が吊り下ろされてきたのですから、驚いたのではないかと思います。しかし、ここで御言葉は「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『「子よ、あなたの罪は赦される』」と語られました。ここで問われているのは中風を患う人「本人」の信仰ではなく、彼を取り巻く人の信仰です。「主イエス・キリストの所に私たちの愛するこの人を連れて行くことが、私たちがこの人にできる最大の奉仕だ」という「彼ら」の信仰。「主イエス・キリストならばこの人を必ず癒してくださる。救ってくださる」という「彼ら」の信頼を主イエスが認められたとき、そこに大きな出来事が起こります。それは罪の赦しの出来事です。ここで言う「彼ら」もまた「教会」であるということが出来ます。しかも傍観者にならないアクティブな「教会」です。

主イエス・キリストは彼らの信仰を認めて中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と語られました。「罪の赦しの宣言」です。ここで主イエスはこの人を「子」と呼んでいます。当時の信仰の教師たちが自分の弟子を認める時にこの呼び名が用いられたのです。誰かが「先生、わたしを弟子にしてください」と言ってきて、教師がその人を弟子として認める時に、その人のことを「子よ」と呼んだそうです。ここで主イエス・キリストが中風の人を「子」と呼ばれたということは、主イエスが御自身の家にこの人を迎え入れた。御自身の家族となさった、のです。しかし「あなた(方)の信仰は立派だ」というような褒め言葉を言われるのではありません。「あなたを縛り苦しめている諸々の罪をわたしは赦し、あなたを罪から解放する」と言われたのです。しかし聞いた方はびっくりしたのではないかと思います。しかし、主イエスは誰かが重い病気にかかったら、それは必ずその人の何か重い罪の結果であるとおっしゃられているのではありません。主イエスは因果応報のような考え方をしてはいけない、と断ち切っておられます(ヨハネによる福音書9章1節以下参照)。主イエスはここで病と罪の関係を問題にしているのではありません。誰にでもある根源的な罪を問われるのです。そして主イエスはこの中風を患う人にも「大事なことは、あなたの病よりもあなたの罪である。その罪を明確に指摘されるとともに、そこですぐに罪の赦しを宣言されます。

主イエス・キリストは1章15節で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と神の国(神様の支配)をなさり、宣教を開始されました。「神のご支配が近づいている」ということは罪を犯し続ける人間の裁きが迫っていることを告げているのではなく、神様の罪の赦しの業、神様の和解の業がもう始まっているのだ、と告げられ、「だからあなたは悔い改めなさい。わたしはあなたの罪を赦す。いやもう赦している」と語られています。「罪の赦しのわざは、神様にしか出来ないことである」という律法学者たちの心のつぶやきはある意味正しいのです。「確かに罪の赦しは神様にしか出来ない。しかしそれがここで起こっているならば、なぜ主イエスを通して、神様がここに生きて働いておられるということを認められないのか。」と主イエスは問われます。主イエス・キリストが神様から権威を与えられた「人の子」としてここで行動を起こされている。しかし、それが神の御業であると信じることが出来ない。そこに私たち人間の罪深さがあります。

私たちもまた、「ここに神様が生きて働いておられる」ということが分からなくなる時があります。しかし、神様は御言葉を通して私たちに御自身を示してくださいます。私たちのことを「子よ」と呼んでくださり、御自身の家族「神の家族」の一員としてくださいます。私たちもこの中風の人と同じように罪の赦しの宣言を受けます。「わたしが十字架についたからあなたの罪は赦されている」と。そして私たちは私たちのただ中で働かれる主の御業を仰ぎ、感動し、心から神様を賛美します。そこにこそ慰めに満ちた教会の姿があるのではないかと思います。

御言葉を受けた後、8名の兄弟姉妹と祈りを合わせました。感謝。

 

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