牧師ブログ

5月16日祈祷会の学び(マルコによる福音書2章13~17節)より

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を

招くためではなく、罪人を招くためである」(2章17節)と主イエスが語られたことによって、私たちは初めて、なぜ主イエスがレビを召されたかという、その理由がわかります。それはレビが弟子としてふさわしいからではありませんでした。主イエスはレビをご覧になられました。そして、この人には自分が必要だとお思いになられました。だから主イエスはレビをお召しになられました。この判断をなさったのは主イエスがなさったことであり、レビではありません。レビは自分に主イエスなど必要ないと思っていたでしょう。自分が医者を必要としている「病人」だとは思ってもいなかったでしょう。聖書には罪(神から離れて生きる存在)の中に生きている者を「病人」とたとえます(イザヤ書53章6節)。しかし、主イエスはレビのことを癒しが必要な存在であり、主イエスと共に生きるべき存在であると認められたのです。

私たちはいつの間にか思い違いをしてしまうことがあります。「何か自分が弟子らしいことをしているから弟子なのだ」と思い込んでしまうことがあります。また逆に「自分は本来主イエスの弟子になるべき存在ではない者だった」と自分の罪と自分の闇の部分ばかりを見つめてしまうこともあるでしょう。それも間違いです。私たちが召され、教会に集う者とされていのは、キリスト者とされているのは、わたしたちが「主イエスを必要としている病人」であるからです。

私たちが主イエスの弟子であるのは、自分が弟子にふさわしい人間であるからではない。ただ、主が私たちを召して、癒してくださった、というこの一点において、私たちは弟子としてあり続けることが出来るのです。つまり、主イエス・キリストが私たちのために十字架で死んでくださり、私たちを罪の隷属から贖い出してくださった、というこの一点において、私たちは主イエスの弟子として生きることが出来るのです。教会とは主イエスに足を洗っていただいた者の集団であり、主イエスの十字架によって贖い出された集団です。

このことは、レビに招かれて宴会についたすべての者たちにも同様に言えることです。主イエスは彼らの病を癒す「医者」となってくださることにより、彼らをご自分の弟子としてくださいました。レビの家は主イエスがその中心におられ、その食事の席の卓主となられることにより「教会」となっていると言えるでしょう。そこで主イエスが御自身とそこに集う者たちひとりひとりを結びつけてくださるのです。

私たちが教会の一員とされていること、私たちが主イエスの弟子とされていることの根拠は、主イエスの中にあるのであって、私たちの中にあるのではありません。だから、私たちは、他の弟子たちの有り様を見て、簡単に「この人はふさわしくない」、「この人はもう主の弟子ではない」ということは出来ません。その人がどうあれ、主イエスがなおその人の主であろうとされている限り、その人は主の弟子なのです。

レビは「わたしに従いなさい」という主の招きを受けたとき、躊躇することなく、自分の今までの生活を投げ出して、主イエスに従いました。「わたしに従いなさい」という招きは決して洗礼を受ける時だけに与えられるものではありません。信仰生活の中で、何度も私たちは主の招きを受けるのです。自分勝手な道を歩み出しそうになったとき、「空しいものを求めるな。わたしに従いなさい。わたしがあなたの人生の全責任を負うから、わたしにあなたの人生のすべてを委ねなさい」と主イエスは絶えず私たちを招いてくださっているのです。その御言葉に従うことはいつでも決断を要します。しかし主イエスから決断を促された「今」という時こそ「恵みの時」であり、「今日」という時こそ「救いの日」です(コリント二・6章2節参照)。主の招きの声に応えつつ歩んでいきたいと思います。主に従って行く中で私たちは清くされ、癒されるのです。

 

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