牧師ブログ

2019年5月2日祈祷会の学びより

マルコによる福音書1章40~45節の御言葉を聴き、8名の兄弟姉妹と祈りを合わせました。

聖書の学びのまとめ より

この重い皮膚病の人の癒しは私たちに「神の御心に従う」ということの大切さを示していま

す。しかし、それは大切なことであるとともに、「神様に対する信頼」に留まり続けるという

「戦い」が必要となります。私たちも自分自身が病む時、また、家族や友人が病む時、癒しを

求める思いがあります。「神の支配が到来している」と「主イエス・キリスト」がわたしたち

のただ中におられて支配しておられる」と告げられても、私たちは思うのです。「それならば、

私たちが何回も自分について、また、自分の愛する者について癒されなかったのはなぜなのか」

という思いが起こります。しかし、神様が私たちに与えてくださろうとしているのは、「健康」

以上のものです。それが「神の国」なのです。私たちを神様から引き離し、私たちの人生を空

しくし、神様の正義を見失わせる「罪」の支配から私たちを解き放つことが、主イエス・キリ

ストの「意志」であったのです。それは神の意思です。それが「神の国」なのです。病気の者

が神の支配に身を委ねて生きる、というのは、一つの決断です。病気に代表される「不幸」に

見舞われる者は自分の「不運」を嘆くことになります。神様の意思では正体不明の運命が自分

の人生を翻弄しているかのように思い込んでしまいます。「これが運命ならば諦めるしかない」

と思ってしまうのは、私たちキリスト者の中にもあるのではないでしょうか。しかし、神様の

支配に信頼する者は、このような運命論と戦うのです。

この『重い皮膚病』を患っていた人が主イエスに言った「御心ならば」と言ったその言葉を、

主イエスがご自身の祈りとなさいました(14章36節)。「ゲッセマネの祈り」です。主イエ

スが十字架の死の直前に父なる神様に向かって、「アッバ、父よ。あなたは何でもおできにな

ります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、御心

が行われますように。」と祈られました。そこでは主イエスの祈りは聞かれませんでした。主

イエスご自身「解き放たれたい」と願ったその苦しみから逃れることは出来ませんでした。ご

自身の求められた神様の御心が貫かれたとき、主イエスは罪人として裁かれ、十字架の上で死

なれるのです。神の民イスラエルの群れからはじき出されて殺されたのです。しかし、そこで

こそ真実の解放が実現したことを、この福音書の著者マルコは告げているのです。

「病気が癒される」、「社会が変革される」、「奇跡が体験できる」そのように告げた方が

多くの人が集まる。しかし、それは真実の神様の支配ではありません。私たちは「十字架と復

活の福音」を宣べ伝える群れとして主に召されているからです。使徒ペトロは異邦人の百人隊

長コルネリオらの家に招かれたとき、こう語りました。「神は人を分け隔てなさらないことが、

よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられ

るのです。・・」と語り、主イエスのなさった悪霊追放や癒しの出来事も語りましたが、主イ

エス・キリストがエルサレムの人々に十字架にかけられて殺されたこと、神がその主イエスを

三日目に復活させられたこと、主イエス・キリストはご自身が生きている者と死んだ者の審判

者として神から定められている者であることを、宣べ伝えるようにと「われわれ」(教会)に

命じられたこと、イエスを信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられると、聖霊が

証している」と語りました。これが教会の宣べ伝えていた伝道の言葉なのです。ですから、今

日の箇所で病が癒されたことを証する者の証は不完全であると言わざるを得ません。

しかし、主イエスはご自身の憐れみ深い権威によって、この人から「汚れ」を取り除き、「神

の民の群れの中に戻された」のです。神を礼拝する民として生きる道を歩んで欲しいというの

がこの人に対する主イエスの意志ではなかったかと思います。私たちも神様の「御心」とは、

私たちを罪から贖い、救い、神の民として生きることであることを信じて、祈りつつ歩んでい

きたいと思います。

 

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